「球は霊なり」 近藤兵太郎の野球道

野球殿堂の特別表彰
 今年の野球殿堂入りの選考において、アマチュア野球関係者などを含め球界に貢献した人が対象となる特別表彰で、1931(昭和6)年に台湾の嘉義農林高校を甲子園出場への導いた近藤兵太郎(故人)が候補者に追加された。特別表彰委員会の投票は各委員が3名以内の候補者名を投票用紙に記載することより行われ、有効投票数13のうち75%(10)の得票で選出となるが、近藤の得票数は0であった。

松商野球部初Vの名将
 2015年(平成27)年に日本で公開された永瀬正敏主演の映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』を観られた方もおられるかもしれない。近藤は1888(明治21)年に愛媛県松山市で生誕。若かりし頃、ベースボールに熱中した正岡子規と同郷というのも興味深い。1903年に愛媛県立商業学校(3年後に松山商業学校に校名変更)に入学し、野球に没頭。卒業後、29歳で母校の監督になり、2年後には全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)初出場へと導く。この大会以降、同校は6年連続で出場し、1925年には中等学校選抜野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)で初優勝。松山商業野球部の第一期黄金時代を築いた名将である。

三民族混成チームをまとめる
 松山商業が選抜野球大会を初制覇した年の夏の大会では予選敗退。その責任を負い、近藤は辞任した。その後、台湾で日本での指導者としての実績を買われ、40歳で再び中等学校野球にコーチとして関わることになった。近藤が監督に就任した年の夏の大会に嘉義農林高は台湾予選を勝ち抜き、甲子園でも準優勝と躍進した。近藤が率いた同高は春の大会に1度、夏の大会に4度甲子園に出場。当時の台湾の民族比率は本島人(漢民族)が75%、内地人(日本人)が20%、残りの5%が原住民族(高砂族)で、同高の生徒比率も同じであった。近藤は原住民族の身体能力の高さ、本島人と内地人のそれぞれの長所を活かし、三民族混成チームをまとめ上げ、台湾の子供たちに夢を与えた。これからのグローバル化が一層進む社会の中にあって、異なる民族の長所を活かして組織の機能を最大化した近藤の手腕は大いに評価されるべきであるし、様々な価値観が共存する多様性社会の中でのマネジメントの指針となるだろう。

武士道精神野球
 近藤の野球理論は、学生時代に薫陶を受けた杉浦忠雄の”精神の強さとセオリー”を重視する「武士道精神野球」がベースになっている。「心眼で打つ、球を見定めてバットを振れ」「球は霊(たま)なり、霊正しからば球また正し、霊正しからざれば、球また正しからず」と精神の修養を諭した。また日蓮に傾倒してことから、鎌倉幕府に逆らって島流しにあっても信念を貫き通した日蓮宗の開祖の話を選手によく聞かせたという。精神主義だけではなく、「野球はパーセンテージのスポーツである」との考えからデータを重視することも指導した。データ野球の先駆けである。

日本のプロ野球のルーツ
 近藤の松山商業時代の教え子である藤本定義と森茂雄は早稲田大学に進学。その後、1936年の日本職業野球連盟発足(現NPB)時に藤本は東京巨人軍(現読売巨人軍)、森は大阪タイガース(現阪神タイガース)の初代監督に就任。近藤の野球理論は、日本のプロ野球のルーツのひとつであるといえる。加えて同高の教え子である呉昌征は東京巨人軍に入団し、そのプレーぶりから人間機関車と呼ばれた。この教え子3人は殿堂入りをしている。今回、近藤の名前が候補者として挙がったことで、その業績が詳らかにされ、正しく評価されるきっかけになればと期待する。


(敬称略)

参考文献:『台湾を愛した日本人2 「KANO」野球部名監督-近藤兵太郎の生涯』 古川勝三 アトラス出版

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