運命的な邂逅
1993年のシーズン終了後、オリックス・ブルーウェーブ(現・同バファローズ)の遊撃手・小川博文がミズノの久保田五十一(いそかず)のもとへ「細身で小柄な選手をつれてやってきた」(『258本をうんだバット』友成那智著)。のちのイチローと日本でトップクラスのバット職人である久保田が出会った瞬間である。プロ野球界と深い関わりがある久保田だが、その小柄な選手が誰かわからなかったと同書にある。92年にドラフト4位で愛工大名電からプロ入り。ルーキーイヤーは40試合に出場し、95打数24安打(打率2割5分3厘)5打点。翌年は43試合に出場し、64打数12安打(同1割8分8厘)3打点。通算本塁打は野茂英雄(当時・近鉄バファローズ)から放った1本のみで、”鈴木一朗”’という名前を知らないのも当然といえた。その後、小川は彼がその年のハワイのウインターリーグで首位打者になったことと新しく監督になった仰木彬から大きな期待を寄せられていることを伝えた。
世界の安打製造機へ
イチローはそれまで巨人で通算1696安打を記録した篠塚(和典)モデルのバットを使っていたが、ヘッドをもう少し軽くしたかったようだ。久保田はその要求に応えるために、「重い木を使って、ヘッドを少し細くする」か、「軽い木を使って、根元を少し太くする」か2通りの方法があることを説明した。どちらがベターかをイチローから尋ねられた久保田は、「細いわりには重さがある、いい材質の木を使えますから」(同書)と前者を推奨した。そのとき、イチローは世界の安打製造機へのスタートラインに立ったといえる。
世界記録を達成
翌94年シーズン、仰木監督のアイデアで登録名を変えると、レギュラーに定着して安打を量産した。50年に阪神・藤村富美男がつくったシーズン最多安打(191本)の記録を塗り替える210安打で首位打者を獲得。NPBでは7年連続でタイトルを保持した。そしてMLBへと活躍の場を移すと、01年にはシーズン242安打の新人記録を達成。首位打者、盗塁王、新人王、MVPに輝く。04年にはジョージ・シスラーが20(大正9)年につくったシーズン最多安打記録を更新する258安打を放った(最終的には262本にまで伸ばす)。
野球の神様の導き
イチローは色など多少変えた部分もあったが、基本型は久保田が最初につくったバットを使い続けた。バットづくりの最も難しいところは80%が材料の質で決まり、イチローが1シーズンで使う最高品質のバットを120本つくるためには1万本以上の角材が必要になるようだ。イチローは「バットは体の一部。(中略)いまのぼくがあるのは、このバットのおかげ」(同書)と久保田のバットに最大級の賛辞を贈る。背番号51と「五十一」という名前の偶然にして必然な邂逅。それは野球の神様の不可思議な導きだったのであろうか――。
(敬称略)