現役に別れを告げる言葉

最後の言葉

 球春到来――。プロ野球各球団は2月からキャンプイン。同月22日にオープン戦が始まり、桜前線の北上に足並みを揃えるように本番に向けての準備が整っていく。そして3月28日に開幕を迎える。始まりがあれば終わりがある。今季、プロ入りした選手もいつかはユニフォームを脱ぐときが来る。スーパースターといえども”永久に不滅”ではない。そんな引退時の言葉を拾い集めたのが『プロ野球最期の言葉』(村瀬秀信著)だ。

体力の限界やケガ

 世界のホームラン王のように「王貞治のバッティングができなくなった」ことを引退の理由とする選手もいるが、多くの選手が体力の限界やケガでユニフォームを脱いでいる。ブンブン丸の愛称で、ヤクルト一筋19年。通算304本塁打を放った池山隆寛は「ビデオの中の自分が、本当に懐かしく、また別人のように見えたとき、自然に涙が出てきました」と、自らの限界を悟った。軽快なコンバットマーチに乗せ、軽々とスタンドに放り込んだ全盛期のバッティングとのギャップに涙を禁じ得なかったのだろう。1992年の西武との日本シリーズで、3試合に先発。いずれも完投し、敢闘賞を受賞した岡林洋一。プロ10年目に戦力外通告を受け、その日は「『まだ野球をやってやる』という強い気持ちがあった。でも次の日、練習に行く途中、車の中で右肩に『もう少し付き合ってくれよ』と言ったら、涙があふれてきた。これが正直な気持ちなんだろうって」。岡林の右肩は限界に達していた。

厳しさや苦しさ

 好きな野球ができて幸せだったという言葉を残し、球界を去る選手がいる一方、プロとして過ごした日々の厳しさや苦しさを物語る選手もいる。通算2173安打の小さな大打者、若松勉は「入団してから、野球を楽しいと思ったことは、一度もありませんでした」と語り、ザトペック投法でV9時代の巨人に敢然と立ち向かった村山実は「ホンマにしんどい野球人生やった」とコメントした。史上最多の7度首位打者に輝き、前人未踏の3000本安打を達成した張本勲。シーズン3割以上を16度、ベストナインも同じ回数選出された安打製造機は、「これであの四角い打席に立たなくていいと思ったとき、寂しい気持ちよりホッとしていますね」と心中を語った。ヴィクトル・スタルヒンはNPB発足時に巨人に入団。1939年にはシーズン42勝のプロ野球記録をつくったが、戦時中はロシア系のため敵性外国人とみなされ、須田博に改名させられるなど迫害を受け、44年には巨人を追放される。55年には史上初の通算300勝を達成し、現役生活にピリオドを打った。引退後、「野球人生、僕は裏切られっぱなしだった」と親友に漏らした。

不完全燃焼

 日本人選手のMLBへの道を切り拓いた野茂英雄。その後、イチロー、松井秀喜、松坂大輔、ダルビッシュ有らが海を渡った。その先駆者も「悔いが残る」と引退時に心中を吐露した。MLB通算123勝を挙げ、無安打無得点を2度達成していても、不完全燃焼だったのだろう。野茂はまだ見果てぬ夢を追い続けているのかもしれない。

オレ流を貫く

 日本球界初の1億円プレーヤーであり、三冠王に3度輝いた落合博満。「職業野球のなかに携わったひとりの人間……。そういう感覚でしか野球をやってきてないんで、ものすごい生活感のあるプロ野球選手じゃなかったかなと思っています」と引退会見で述べた。日本人として初めて年俸でコミッショナー調停を受けるなど、己の技術の金銭価値にとことんこだわったプロ野球選手としての在り方を落合らしい物言いで表現した。名球会も引退試合も辞退し、”オレ流”を貫いた。 

辞世の句

 ”駒沢の暴れん坊”という東映フライヤーズの選手像にふさわしい大杉勝男は、自らを〈かすみ草〉にたとえる繊細さも持ち合わせていた。史上初の両リーグ1000本安打を達成し、両リーグ200本塁打にあと1本と迫りながら、武上四郎監督の確執から引退を余儀なくされた。「去りし夢 神宮の杜に かすみ草」。大杉のプロ野球選手としての辞世の句であった。

末期の言葉

 プロ入り前は米国相手に活躍し、プロ入り後は日本球界初の無安打無得点を達成。日本の初代エースといえる、沢村栄治。伝説の大投手も戦争には抗えなかった。3度目の出征で戦死。「野球がやれねば一生職工でいい。わしは事務をとることは不向きやけど、飛行機の鋲打ちはうまいもんやで……」と7年の選手生活を締めくくった。特攻隊員として戦火に散った、名古屋軍のエース石丸進一。特攻前にボールに「われ人生 24歳にして尽きる」と遺書を認め、3年という短すぎた現役生活と決別した。彼らの場合、’’末期’’の言葉でもある。

「球は霊なり」 近藤兵太郎の野球道

野球殿堂の特別表彰
 今年の野球殿堂入りの選考において、アマチュア野球関係者などを含め球界に貢献した人が対象となる特別表彰で、1931(昭和6)年に台湾の嘉義農林高校を甲子園出場への導いた近藤兵太郎(故人)が候補者に追加された。特別表彰委員会の投票は各委員が3名以内の候補者名を投票用紙に記載することより行われ、有効投票数13のうち75%(10)の得票で選出となるが、近藤の得票数は0であった。

松商野球部初Vの名将
 2015年(平成27)年に日本で公開された永瀬正敏主演の映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』を観られた方もおられるかもしれない。近藤は1888(明治21)年に愛媛県松山市で生誕。若かりし頃、ベースボールに熱中した正岡子規と同郷というのも興味深い。1903年に愛媛県立商業学校(3年後に松山商業学校に校名変更)に入学し、野球に没頭。卒業後、29歳で母校の監督になり、2年後には全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)初出場へと導く。この大会以降、同校は6年連続で出場し、1925年には中等学校選抜野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)で初優勝。松山商業野球部の第一期黄金時代を築いた名将である。

三民族混成チームをまとめる
 松山商業が選抜野球大会を初制覇した年の夏の大会では予選敗退。その責任を負い、近藤は辞任した。その後、台湾で日本での指導者としての実績を買われ、40歳で再び中等学校野球にコーチとして関わることになった。近藤が監督に就任した年の夏の大会に嘉義農林高は台湾予選を勝ち抜き、甲子園でも準優勝と躍進した。近藤が率いた同高は春の大会に1度、夏の大会に4度甲子園に出場。当時の台湾の民族比率は本島人(漢民族)が75%、内地人(日本人)が20%、残りの5%が原住民族(高砂族)で、同高の生徒比率も同じであった。近藤は原住民族の身体能力の高さ、本島人と内地人のそれぞれの長所を活かし、三民族混成チームをまとめ上げ、台湾の子供たちに夢を与えた。これからのグローバル化が一層進む社会の中にあって、異なる民族の長所を活かして組織の機能を最大化した近藤の手腕は大いに評価されるべきであるし、様々な価値観が共存する多様性社会の中でのマネジメントの指針となるだろう。

武士道精神野球
 近藤の野球理論は、学生時代に薫陶を受けた杉浦忠雄の”精神の強さとセオリー”を重視する「武士道精神野球」がベースになっている。「心眼で打つ、球を見定めてバットを振れ」「球は霊(たま)なり、霊正しからば球また正し、霊正しからざれば、球また正しからず」と精神の修養を諭した。また日蓮に傾倒してことから、鎌倉幕府に逆らって島流しにあっても信念を貫き通した日蓮宗の開祖の話を選手によく聞かせたという。精神主義だけではなく、「野球はパーセンテージのスポーツである」との考えからデータを重視することも指導した。データ野球の先駆けである。

日本のプロ野球のルーツ
 近藤の松山商業時代の教え子である藤本定義と森茂雄は早稲田大学に進学。その後、1936年の日本職業野球連盟発足(現NPB)時に藤本は東京巨人軍(現読売巨人軍)、森は大阪タイガース(現阪神タイガース)の初代監督に就任。近藤の野球理論は、日本のプロ野球のルーツのひとつであるといえる。加えて同高の教え子である呉昌征は東京巨人軍に入団し、そのプレーぶりから人間機関車と呼ばれた。この教え子3人は殿堂入りをしている。今回、近藤の名前が候補者として挙がったことで、その業績が詳らかにされ、正しく評価されるきっかけになればと期待する。


(敬称略)

参考文献:『台湾を愛した日本人2 「KANO」野球部名監督-近藤兵太郎の生涯』 古川勝三 アトラス出版