原監督、球団歴代最多勝利

球団新記録の1067勝

巨人・原辰徳監督が9月11日のヤクルト戦(東京D)に勝ち、球団の監督勝利数を1067勝として、川上哲治元監督を抜き単独トップになった。原監督は第三次政権時の2019年7月に通算千勝を挙げ、今年7月には長嶋茂雄終身名誉監督の1034勝を超え、球団歴代2位になっていた。

現役時代は若大将

原が監督として、これだけの白星を積み上げられると予想した人はどれだけいただろうか。現役時代の原は「若大将」のニックネームから窺い知れるように、“強かさ”より“爽やかさ”が際立つタイプだった。それが時には淡白な印象となり、エリートのひ弱さを想起させた。

強靭な精神で再起

第一次政権時の2002年、監督就任1年目で日本シリーズを制覇するも、翌年は3位となり「読売新聞社内の人事異動」で事実上の解任の憂き目にあった。このとき原監督は親しい人には「人生最大の屈辱」と漏らしたそうだが、それをバネにして再起する“強靭な精神”があった。幸福論のカール・ヒルティになぞらえるなら、「屈辱は人を強くするか、それとも打ち砕くかのどちらかである」といえる。今の原監督には失うものがない者が持つ“強さ”を感じ取れる。

常勝チームゆえの難しさ

FAで他球団の有力選手を次々と獲得し、「あれだけの戦力があれば誰が監督をしても勝てる」という声もある。しかし戦力は勝つための十分条件ではない。現に2004~05年の堀内恒夫、16~18年の高橋由伸はチームを優勝に導くことはできなかった。巨人という常に勝つことを求められるチームならではの難しさもあるだろう。日々タイトロープというのが原監督の心境ではないか。まさにダモクレスの剣である。

攻めの采配

原采配の特徴である思い切りの良さが、近年さらに磨きがかかった感がある。菅野智之が開幕10連勝を飾った9月8日の中日戦。1-0で迎えた八回表、先頭の吉川尚輝が二塁打で出塁。次打者は菅野という場面で吉川大幾を代打に送り、送りバントのサインを出した。相手投手は5試合連続完投中の中日のエース大野雄大。このケースでは守りに入りたくなるところだが、菅野を代えてまで1点を取りに行く“攻めの采配”をした。吉川大が確実に犠打を決め一死三塁になり、坂本勇人が歩かされた後、亀井善行がベテランらしくきっちりと外野フライを打ち、1点を追加した。その後、中川皓太、ルビー・デラロサとつなぎ、中日打線を零封した。

選手との信頼関係

監督の采配で最も難しいのは継投だが、無失点に抑えていた菅野を代えることは大きなリスクが伴う。仮にリリーフが打たれて逆転されれば、菅野の勝ちを消してしまうことになり、選手との信頼関係にもひびが入りかねない。しかし、積極果敢に勝負に出る。また起用された選手が監督の期待にきっちりと応え、「あの場面は菅野に送らせるべき」という指摘を封じ込める。監督の意図通りに選手が動くチームはやはり強い。

指揮官の大度な態度

温かく厳しい言葉で選手のハートを掴むうまさも原監督の持ち味だ。9月21日の広島戦。6-2でリードしている五回一死。プロ入り2年目で二十歳の直江大輔が後アウト2つでプロ入り初勝利というところで連続四死球を与え、一、二塁のピンチを招いた。ここで原監督は投手交代という非情な采配をした。試合後に「一つの勝利を挙げるのが、どれだけ難しいか、私自身も思ったし、彼もまた、それを思ってマウンドに上がると思う」と語ったが、選手と苦楽を分かち合う指揮官としての大度な態度。原監督から「若いときの槙原(寛己)に似たような感じ」と将来を嘱望されている直江は、今度「一つの勝利を挙げる喜び」を監督と分かち合おうとするだろう。

注目の原監督の勝利数

プロ野球の監督通算勝利数では11位になった原監督。上位5人は、1位は鶴岡一人の1773勝、2位は三原脩の1687勝、3位は藤本定義の1657勝、4位は水原茂の1586勝、5位は野村克也の1565勝と錚々たる面々である。20世紀には選手兼任時代を含め23年間継続して監督を務めた鶴岡一人を筆頭に長期政権も珍しくなかったが、21世紀に就任した監督で10年以上務めたのは第二次政権時(2006~15年)の原監督だけである。世の中のITC化で時間が流れが速くなり、監督業も性急に結果を求められるようになったことも一因であるし、采配がマンネリになるのも早くなったことも一因として挙げられる。今後プロ球界では千勝監督はなかなか現れないだろうが、原監督が20世紀の名将たちにどこまで迫れるか注目に値する。

世界の代打男の本懐

高井保弘のサイン

19歳の甥っ子から元阪急ブレーブスの高井保弘のサインをもらった。言わずと知れた代打本塁打27本の世界記録保持者である。なぜ筆者にくれたのかはわからないが、このブログを開設した餞のつもりだったのだろうか。といっても彼にはこのブログのことをまだ話してなかったので、そのような意図はなかったと思う。事情はどうあれ結果的にこのブログのネタが増えたことは紛れもない事実だ。

その前に高井の現役時代を知らない世代の彼がなぜこのサインを持っているかについて話そう。少年野球のチームに入っていた経験もある甥っ子は野球好きが高じて、高校時代に元プロ野球選手に手紙を書いたり、自宅を訪ねたりして、サインを収集していた。高井宅を訪れ、手に入れた大事な“戦利品”のひとつを筆者に譲ってくれたというわけだ。

長い下積み

「名前は高井、給料は安い」。近鉄の日生球場や藤井寺球場、南海の大阪球場といった敵地では、こんなヤジをよく飛ばされたと高井は自叙伝『代打男―3球にかけた19年』で述懐している。その頃、代打は陽の当たらない稼業だった。野球の名門・今治西高から名古屋日産モーターを経て、1964(昭和39)年に阪急に入団したが、長らく下積みが続いた。チームメイトからは「ブーちゃん」と呼ばれた174cm、90kgという体形で、ウエストは1メートルを超える。足は遅く、守備にも難があり、外野にコンバートできない。一塁には好打者の加藤秀司がレギュラーに定着。つまり打力は一軍で通用するものがあったが、守るところがないゆえに、代打要員に甘んじたというのが実情だった。

代打本塁打日本記録達成

高井は70(昭和45)年に代打本塁打を3本放ち、一軍に定着。その後も代打本塁打の数は次第に増えていった。74(昭和49)年5月には穴吹義雄(南海)、中西太(西鉄)が持っていた当時のプロ野球記録の13本に並び、6月の太平洋戦(平和台球場)で東尾修から14本目を放ち、日本記録を更新した。その快挙に目を付けたのが、当時南海の選手兼任監督だった野村克也だった。テスト生から戦後初の三冠王となり、自らを”月見草”にたとえた苦労人はなんとかこの名脇役を檜舞台に出してやりたいと考えた。7月13日の大阪球場での南海戦。高井は野村監督の目の前で15本目の代打本塁打を放った。そして夢の球宴への監督推薦での出場が決まる(このシーズン、年間でのキャリアハイとなる6本の代打本塁打を放つ)。

球宴史上唯一の逆転劇

7月21日に後楽園球場で四万六千余人の観衆を集めて行われたオールスター第一戦。9回表が終わり、全セが2-1と全パをリードしていた。全セの3番手松岡弘(ヤクルト)に7、8回と三者凡退に抑えられ、全パは敗色濃厚だった。9回裏の攻撃、一死後、代打土井正博(近鉄)が三塁への不規則内野安打で出塁。代走に桜井輝秀(南海)が送られ、次々打者であった全パ野村監督は取って置きの代打高井を告げた。高井は1ボールからの2球目を強振し、野村監督が「ジェット機みたいな当たり」と表現した鋭いライナーが左中間席へと飛び込んだ。球宴史上唯一の代打逆転サヨナラ本塁打だった。高井はこの場面で「併殺狙いで内角シュートを投げてくる。そのボール以外は何が来ても打たない」」(『週間プロ野球セ・パ誕生60年 1974』)と狙い球を絞っていた。そして軸足である右足を半足分後ろに引いて、左足をスクエアに踏み出すと、内角球は高井にとって真ん中のボールへと変わる。一方の松岡は「低目のシュート。あれをヒットにされたことはあっても、本塁打にされた記憶はない」(同年7月22日付日経新聞)。そして「代打男であることくらい知っていたが、まさか……」(同日付毎日新聞)とも。全セの指揮官・川上哲治は「高井の一発でやられたねェ。あんないいバッターがいたのかね」(同上)と総括した。

たった1球のチャンス

意外なことに高井の19年に及ぶ現役生活で、球宴出場はこの年が最初で最後であり、スイングしたのも1回きりであった。阪急の本拠地・西宮で開催された第2戦は出場機会がなく、第3戦(広島)は高井の打棒に全セのバッテリーが恐れをなしたのかストレートの四球。翌年からパ・リーグでDH制が採用され、高井は77年にDHでベストナインに選ばれ、78、79年は打率3割、20本塁打を記録したが、不思議と球宴には縁がなかった。野球の神様が与えてくれた1球のチャンスを確実にものにした。ひと振りにかけた野球人生にふさわしい。“代打男の本懐”といえよう。

高井メモ

高井は現役時代、相手投手のクセを図入りで克明にメモに記していた。たとえば、ワインドアップだと、振りかぶったときに肘にゆとりがあるか伸びているか――。セットポジションだと、セット時にグラブの形が膨らんでいるか平らになっているか――。それにより投げる球種が異なる。投手のクセを観察したメモをつけるようになったのは1964~72年に阪急に在籍したダリス・スペンサー(17年に死去)の影響だった。スペンサーは従来の投げた、打った、走ったというだけの野球に「考える」要素を取り入れた。すなわち「Thinking Baseball」の実践し、日本の野球を変えたといわれている。高井はスペンサーから背番号「25」だけでなく、ID野球を継承した。球宴での史上初の快挙も投手の配球を読み切った一打だった。

消えゆく昭和の野球シーン

球宴で一世一代の大仕事をやってのけた高井も去年12月に、高井に球宴への道を開いた野村克也も2月に帰らぬ人となった。昭和の野球シーンが昔日の彼方へと消えてゆく。時代は「令和」。それもむべなるかなである。

(文中敬称略)