川上哲治生誕100年記念試合
今年は巨人の川上哲治元監督とオリックスの前身球団である阪急ブレーブスの西本幸雄元監督の生誕100年にあたり、両球団は記念イベントを開催した。巨人は9月1日のDeNA戦(東京D)を「川上哲治生誕100年記念試合」として行われ、選手全員が川上元監督の永久欠番「16」を付けたユニフォームを着用。原監督は先発に菅野を起用。ローテーションをこの日に合わせ、必勝を期した。そのエースが7回2/3を10奪三振、自責点1と試合をつくると、その力投に応えるように、打線が奮起。2-2の九回裏無死満塁で吉川尚輝が右前へサヨナラ適時打を放ち、劇的な勝利を飾った。
西本幸雄メモリアルゲーム
オリックスは10月1日の西武戦(京セラD大阪)を「誇り高き闘将~西本幸雄メモリアルゲーム」と銘打った。阪急初優勝時のユニフォームが復刻。選手全員が阪急時代の西本元監督の背番号「50」を背負った。始球式は西本元監督の令孫が行い、マウンドには元監督の教え子である「花の44年トリオ」(山田久志、加藤秀司、福本豊)が登場し、セレモニーを演出した。試合はオリックスは3点のビハインドを逆転する勝利への執念を見せたが、八回表に3番手タイラー・ヒギンスが勝ち越し2ランを浴び、敗北を喫した。
戦前に地歩を築く川上
現役18年間で通算安打2351本という成績を残して“打撃の神様”といわれた川上哲治。熊本工業時代に甲子園準Vが2度という経歴を引っ提げ、1938(昭和13)年にプロ入り。ルーキーイヤーに打撃ベストテンの10位と早くも大打者の片鱗を見せ、翌年には弱冠19歳で首位打者と打点王のタイトルを獲得。3年目に本塁打王、太平洋戦争が始まった年である4年目には再び首位打者と打点王になり最優秀選手に選ばれ、戦前にバットマンとして確固たる地歩を築いていた。引退後、第六代巨人軍監督に就任。61年から指揮を執り、74年に辞任するまで、9連覇を含む11回日本シリーズを制覇する。
29歳でプロ入りの西本
和歌山中学時代に甲子園に縁がなかった西本幸雄は戦後、29歳でプロ入り。現役生活は6年で見切りをつけ、指導者への道を歩み始めた。通算成績は276安打、99打点、6本塁打。1963(昭和38)年から阪急監督となり、67年に“灰色のチーム”といわれていた阪急を球団創設以来初の優勝に導く。73年に辞任するまで、川上監督率いる巨人と日本シリーズで5度対戦するが、ONを擁する巨人の壁は高く、全敗する。阪急時代に加えて毎日監督時代に1回、近鉄監督時代に2回、計8回リーグ優勝を果たすも日本一に手が届かず、“悲劇の闘将”といわれた。
戦争の時代を生きる
二人の経歴の共通点は従軍経験があるということだ。それぞれの郷里で入隊し、二人とも将校になった。軍隊ですでにリーダーとしての資質を発揮していた。西本は「俺は悲運でも何でもない。幸運だったと思うよ。自分の才能以上のことをやらせてもらって、リーグ優勝8回という形で終わることができた」(『パリーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』 構成・文/元永知宏)と述べている。川上も「戦後にまた野球ができるなど夢にも思わなかった」(『私の履歴書――プロ野球伝説の名将』)と回想しているように、それが戦争の時代を生き、野球を愛した者の偽らざる心情ではなかっただろうか。
宿命の激突
11回日本シリーズに出場し全勝した監督と、8回日本シリーズに出場し全敗した監督。あまりに対照的な成績を残した同い年の二人の名将。川中島で5度干戈を交えたと伝えられる武田信玄と上杉謙信のように、二人は指揮官として宿命のライバルだったのか――。昭和40年代にプロ野球の覇権をかけて5度激突したという事実が球史に厳然と刻まれている。