オープン戦とシーズン戦績の相関関係

一般的には“内容”重視

球春到来。プロ野球ファンが待ち詫びた季節がやってきた。今年もプロ野球の公式戦に先立ち、オープン戦が開催される。今年は新型コロナウイルス禍による緊急事態宣言の期間延長で、2月に沖縄県内で組まれていた10試合が無観客での練習試合となり、3月2日~21日まで84試合が開催される予定だ。オープン戦は調整の場という位置付けなので、勝つに越したことはないが、“結果”よりも“内容”が重視されるとの見方が一般的である。果たしてオープン戦の戦績はどの程度シーズンの成績と相関関係があるのだろうか。直近10年の戦績を調べてみた(昨年はオープン戦終了後、開幕まで3ヵ月ほど期間があく変則日程だったので対象外とした)。

直近10年の戦績

オープン戦で勝率トップだった9チームのうち、リーグ優勝したのは2013年の巨人と14、15年のソフトバンクの3回。Aクラス入りが6回である。オープン戦で勝率トップになりながらもシーズンで最下位に沈んだケース(17年のロッテ)もある。

オープン戦で最低勝率だったチームがリーグ優勝したことはなく、公式戦でも最下位に沈んだのは11年の横浜(ベイスターズ)、14年のヤクルト、16年のオリックスと中日、18年の阪神の5チーム。Bクラスに終わったのは12チーム中10チームだった。

オープン戦で戦績は振るわなくても、リーグ優勝した17、18年の広島(両年とも11位)、19年の西武(10位)のような例外もあるので絶対的な法則ではないが、オープン戦の戦績が極端に悪いと本番で挽回するのは難しい傾向がある。そういう意味では指揮官としては“内容”だけでなく、“結果”も欲しいというところだろう。

オープン戦は“真剣勝負の場”

直近10年のオープン戦で、安定して好成績を残しているのがソフトバンクだ。勝率トップが2回、2位が3回、3位が2回、4位が1回(昨年も2位)。10位と精彩を欠いた18年以外、いずれも上位の成績を残している。この要因を分析すると、11年に3軍を創設したソフトバンクの選手層の厚さと競争の激しさが挙げられるだろう。オープン戦でアピールしなければ、1軍への切符を手に入れることはできない。生き残りをかけた生存競争は熾烈であり、それが選手の闘争心に火を付け、勝利へとつながっているという見方ができる。ソフトバンクの選手にとって、オープン戦は“真剣勝負の場”といえる。

直近10年でリーグ優勝5回、日本一7回と近年のプロ野球はソフトバンクの一人勝ちの様相を呈しているが、選手層の厚さとチーム内での競争意識の高さがそのベースになっていることは想像に難くない。

データ野球の元祖・尾張久次

野球少年の夢

ネット裏に陣取り、敵味方のデータを収集するスコアラー。今では周知となっているが、プロ野球の草創期には存在していなかった。そんな時代に自らスコアラーという職業を作り出し、第1号となったのは尾張久次という人物であった。

尾張は1909(明治42)年に大阪市出身。高等小学校卒業後、27(昭和2)年に大阪毎日新聞入社し、印刷工として勤務。のちに毎日オリオンズの球団社長となる阿部元喜の推挙で、49(昭和24)年に「スポーツ毎日」の記者になった。尾張は小学生時代には野球マニアで、野球チームに籍を置くかたわら、野球の新聞記事を書き写すことに熱中していた。それだけでは飽き足らず、試合ごとの投手・打者の成績や統計を自己流にノートにつけるようになっていた。尾張にとって、スポーツ記者は憧れの職業であった。

野球をより緻密に

尾張はスポーツ毎日の記事の執筆と並行して、打者の投手別対戦成績、投手の打者別対戦成績を集計するなどデータ分析を深化させた。当時は画期的なデータだった。尾張が着目したのは新聞の成績表には載らない選手の働きを数値化することだった。たとえば、①打者の無安打試合とマルチヒットの試合数。その安打と試合の勝敗の関連性。②先発投手が休養十分なのに3回以前にKOされた。③ライバルチームに強い(弱い)などである。

斬新な試みにより野球をより緻密にする狙いがあった。そういう作業を続けるうちに尾張は重要なことに気づいた。このデータを選手の年棒の査定に使えば、公平で客観的な報酬の査定制度をつくれるのではないかということである。選手の働きを正確に数値化することも高度なデータ野球には必要不可欠だった。

45歳での転職

当時の査定は非常にどんぶり勘定で、球団代表が決定権を持っていて、それに不満を抱く選手も多かったという。尾張は自分で作成した選手個別の貢献ポイントを表にして、自社が所有する球団である毎日・湯浅禎夫総監督に見せたが、関心を示さなかった。そこで、かねてより自分のデータ分析に興味を寄せてくれている南海・鶴岡一人監督に見せると大いに興味を持った様子だったので、自らを売り込み、南海で事務職として職を得た。ときに年齢は45歳。毎日新聞社入社29年、出版局の副参事という肩書を捨てての転職だった。鶴岡監督にこれからはデータに基づいた合理的な野球が主流になるという先見の明があったのだろう。尾張は裏方として鶴岡南海の7度のリーグ優勝と2度の日本一を支えた。

尾張は現状に甘んじることなく、データ分析に創意工夫を重ねた。南海に同期入団した野村克也が70年に選手兼任監督に就任すると、新しいデータ方式が必要という要望に応え、ストライクゾーンを9等分し投手の配球や打者の得意・苦手コースを記録した。野村の評論家時代に一般的に認知された「野村スコープ」は、元はと言えば尾張が考案したものだった。

優勝請負人

南海を79年に退団後、球団誕生2年目の西武にチーフスコアラーとして招聘される。西武の根本陸夫管理部長兼監督はスコアラーとしての尾張の手腕とキャリアを高く評価し、西武ライオンズ王国づくりにその力が必要だと考えたのだった。そして広岡達朗監督の下、82年に球団初のリーグ優勝と日本一を成し遂げ、翌年には球界の盟主・巨人を倒して日本一に。それは十二球団一といわれた西武のスコアラー網なくして成しえなかっただろう。

西武の連覇を見届けたあと、尾張は30年に及ぶスコアラー人生に終止符を打った。その2年後、現代野球に大きな足跡を残したデータ野球のパイオニアは75年の激動の生涯を終えた。鶴岡、野村、広岡という3人の名将のもとで、9度のリーグ優勝と4度の日本一に貢献。優勝請負人と呼ぶにふさわしい仕事ぶりだった。

参謀の役割

尾張の仕事を振り返って、目を引くのは単なるスコアラーに留まらず、参謀の役割を果たしていたことだ。例を挙げると、59(昭和34)年、南海が杉浦忠の4連投という超人的な活躍で4連勝し、巨人を初めて倒した日本シリーズ。第2戦の南海が2点ビハインドの状況で巨人・水原茂監督はスクイズのサインを出すと読み、ネット裏にいた尾張は蔭山和夫コーチに合図を送った。バッテリーはウエストし、スクイズは失敗。南海はピンチを脱し、逆転勝利の伏線となった。この場面も水原監督の戦法を緻密に分析していた尾張の読み勝ちであった。

64(昭和39)年の南海対阪神という関西勢の対決となった“御堂筋シリーズ”。3勝3敗で迎えた第7戦の先発投手を巡って、南海の首脳陣のあいだでは激しい議論がかわされた。中3日の皆川睦雄でいくか第6戦で2安打完封したジョー・スタンカを連投させるか――。鶴岡監督は皆川を推していたが、尾張はスタンカの連投を進言。結局鶴岡監督が尾張案に乗り、スタンカは第7戦に先発。完封勝利を挙げ、シリーズ最優秀選手に選ばれた。

心血を注いだ「尾張メモ」

これらの逸話からうかがえるのは尾張がいかに首脳陣からの信頼が厚かったということである。一介のスコアラーではなく、参謀としてチームを勝利に導くことに心血を注いだ。その結実が「尾張メモ」であった。

今までにない職業をつくることは数多くの艱難辛苦が伴う。前人未到の分野の開拓者は、自叙伝といえる『「尾張メモ」の全貌』で、「『無』から『有』へのパイオニアスピリットでつねに新鮮味を探究しつつ歩んだわが道は、決して単調なものでなく山あり谷ありで模索の険しい道でありました」と記している。「精神一到何事か成らざらん」という明治生まれの気骨で、プロ野球経験者ではない素人がプロ野球界に多大な功績を残した。今日のプロ野球の隆盛には、このような“無名の裏方”の存在があることを忘れてはならないだろう。

参考文献
「尾張メモ」の全貌/尾張久次/講談社
ID野球の父~プロ野球に革命を起こした『尾張メモ』再発見~/戸部良也/ベースボール・マガジン社