『プロ野球「経営」全史』

プロ野球の通史

<はじめに>の文中に「野球の本でありながら、もの干し竿の藤村も、赤バットの川上も、青バットの大下も、長嶋の天覧試合のホームランも、江夏の二一球も、イチローも松井秀喜も大谷翔平も登場しない」とある。プロ野球球団の経営者の立場から野球史を綴るノンフィクションである。

野球というスポーツの日本伝来から始まり、1920年に日本初のプロ野球球団となる「日本運動協会」が誕生し、1936年には日本野球機構の前身である日本職業野球連盟が発足し現在に至るまでを、経営者やスポンサーの動向を中心に、時には政治家の動きを交え、興味深いエピソードをふんだんに盛り込み、プロ野球の通史として描いている。

日本野球の祖

プロ球団の経営史であるのに、日本への野球伝来から起筆した理由を、「最初から野球と鉄道は関係が深かったと分かった」からと、筆者は<あとがき>で述べている。日本のプロ野球では親会社が鉄道会社であることが、消滅した球団を含めて多い。野球も鉄道も1872(明治5)年に日本に伝わり、日本においてはそれらの歴史は同じ年に始まった。その前年に渡米し、ベースボールを知り、有能な鉄道技師となって帰国した平岡凞(ひらおか・ひろし)が1878(明治11)年に結成したのが日本最初の野球チームである「新橋アスレチックス倶楽部」である。平岡は「日本野球の祖」として野球殿堂入りしている。

短命の黎明期の3球団

学生スポーツとしての野球は明治20年代から30年代にかけて盛んになっていき、1915(大正4)年に現在の夏の甲子園の前身にあたる全国中等学校優勝野球大会が始まり、1925年に東京六大学が発足する。ちょうどその中間の年である1920年に、早稲田大学野球部OBの河野安通志、押川清、橋戸信により日本初の職業野球チーム「日本運動協会」が設立される(芝浦球場を本拠地としていたので「芝浦協会」とも呼ばれる)。

1921年には女性奇術師・松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)の夫で一座の支配人である野呂辰之助が「天勝野球団」を結成。両球団とも消滅した1924年に、阪急・東宝グループの創始者である小林一三が日本運動協会を引き継いだ「宝塚運動協会」を設立。5年後には宝塚運動協会も解散と、日本の職業野球の黎明期に誕生した3球団はいずれも短命に終わる。それを著者は「野球に限らず、スポーツを職業とする、つまりスポーツで金を儲けることはタブー視されていた。異常なまでにアマチュア精神が肥大化していたのだ」と分析している。明治の終わりには野球害毒論争が起き、舶来のスポーツに対する拒否反応があったことも一因だろう。

虎ノ門事件と正力松太郎

そんな日本の精神風土に抗い、日本にプロ野球をつくったのが、“プロ野球の父”と称される正力松太郎だ。正力とプロ野球との邂逅はある事件に起因する。1923年、皇太子裕仁新王(後の昭和天皇)が帝国議会の開院式に出るために自動車で皇居に向かっている途中、虎ノ門を通ったときに狙撃される事件が起きた(いわゆる「虎ノ門事件」である)。

暗殺は未遂に終わったが、この皇族テロに山本権兵衛内閣は総辞職し、警備責任者である警視総監・湯浅倉平と警視庁警務部長・正力松太郎は懲戒免官となった。同時期に読売新聞社は経営危機に陥っていたが、正力松太郎も失業する。著者は「この偶然が日本野球史を変える」と書き記す。経営危機に陥っていた読売新聞社を買収した正力は、野球には詳しくなかったが、日米野球を通じて野球の興行ビジネスとしての可能性を見い出し、1934(昭和9)年に「大日本東京野球倶楽部」を設立する。今の「読売巨人軍」である。

日本最古の球団

現存している日本最古の球団はどこなのか? 通説では1934年に設立された巨人である。巨人の球団ロゴマークにもいつしか「1934」という数字が入り、<我こそがNPB誕生前から存在した日本球界最古の球団なり>とさりげなくアピールしている。だが著者は、「一九三六年から現在まで親会社が一貫しているのは阪神だけだ(阪急と経営統合してはいるが)。最初の球団とされる巨人軍は実は経営母体が一貫していない。三六年の東京巨人軍の経営母体は、株主のなかに正力松太郎の名はあるが読売新聞社の名はなく、(中略)中心になる企業のない会社だった」と指摘する。

また巨人は1936年4月に日本職業野球連盟が主催した最初のリーグ戦には、アメリカ遠征に出ていて参加していない。「日本のプロ野球は読売巨人軍が牽引してきたかのように語られるが、それは読売・巨人中心史観の立場から見方に過ぎない。阪神タイガースこそが一九三六年から二〇二一年までの八五年間にわたり、変わらず姿を球史に刻み続けているのだ」と、東京生まれの阪神ファンである著者は主張している。巨人と阪神の“伝統の一戦”は、東京対大阪という構図だけでなく、最古の球団の座を争うチームによる歴史と因縁の激突とみると、より一層興趣が湧く。

多士済済

プロ野球の波乱万丈の長い歴史の中で、様々な人物が登場する。高利貸しで、銀座のキャバレー経営者であり、「暴力団とも関係があったらしいが、その真偽も分からない」織手登。織手は西園寺公一を経営破綻寸前のセネタースの会長に祭り上げ、集まった資金を持ち逃げしようと画策したようだ(その企ては失敗し、セネタースは東急に身売りする)。

東急によるセネタースの買収劇に関わった浅岡信夫は、元サイレント映画のスターで、戦後すぐに参議院議員となる。児玉誉士夫に近い辻嘉六の懐刀とも知られた「闇の世界にも強い」人物だ。

戦後、テレビやラジオの野球解説で有名になる小西得郎は、野球をしたいという理由で明治大学に進学し、東京六大学で活躍。大学卒業後は上海へ渡り、アヘンの密売で儲けた。軍隊生活の後、密売で儲けた資金で神楽坂の置屋の主人になったという「ひとことでは言い表せない人物」である。小西は大東京軍の3代目監督やスポンサー探し、また戦後は、セネタースの身売りに一役買い、松竹ロビンスの初代監督も務めた。

映画会社がプロ野球に参入するきっかけをつくり、大言壮語ゆえに“ラッパ”と称された永田雅一。「いい意味でも悪い意味でも、何をやらかすか分からない男として、映画界に隠然たる力を持つようになっていった」永田は大映を創立後、1948年に東急との共同経営の球団「急映フライヤーズ」でプロ野球界に参入。シーズン終了後に、「金星スターズ」を買収し「大映スターズ」が誕生。永田は単独でプロ球団を持つに至った。その後、テレビの普及に伴い、映画産業は衰退し、大映は映画会社大手五社の中でもっとも業績が悪化した。永田は“昭和の妖怪”岸信介を通じて、ロッテの創業者である重光武雄と知遇を得、球団をロッテに売却し、やがてはプロ野球から退く。こういう一癖も二癖もある人物が跳梁跋扈していた史実も浮き彫りにされている。

労作にして力作

1947年のわずか1年で消滅したもう一つのプロ野球ともいえる国民リーグ――。「正力三大宣言」により、1950年に2リーグ制へと移行するが、このとき阪神は在版私鉄を裏切り、セントラル・リーグに加盟――。映画産業が斜陽化し、大映、松竹、東映といった映画会社のプロ野球からの撤退――。国鉄→産経新聞社→ヤクルトという共産党・陸軍の複雑な人脈でのリレー――。実質上の昭和最後の年である1988年の同じ日に身売りを発表した関西私鉄の阪急と南海――。2004年の近鉄球団売却に端を発するプロ野球再編問題――。21世紀にはソフトバンク、DeNA、楽天といったIT業界で急成長した企業がプロ野球界へ参入を果たした。それらの動向についても詳細に述べられている。

筆者かねてより戦前、戦後間もなくのプロ球界の合従連衡を知りたいと思っていた。本書を偶然書店で見かけ、その存在を知った。「プロ野球・オーナー会社一覧」や「プロ球団変遷図」、略年表も多く掲載されており、事典としても重宝する。日本のプロ野球の歴史を球団経営者の立場から描く試みは本邦初ではないだろうか。そこにはこの一世紀弱の日本社会の変遷も見て取れる。プロ野球史に残る名選手も名勝負も出てこないが、プロ球団の経営に四苦八苦しながら奔走する経営者の“熱い闘い”が活写されている。多くの資料を渉猟した労作であると同時に、プロ球団の経営史が一気通貫で描かれている力作である。

プロ野球「経営」全史 球団オーナー55社の興亡 [ 中川 右介 ]

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寅年のトラ

寅年の成績

今年は寅年。昨季は両リーグ最多の77勝を挙げ、2位に最大7ゲーム差をつけながら5厘差で優勝を逃した阪神だが、今季はどのような戦いを見せてくれるのだろうか。NPBが誕生したのが1936年。これまでの阪神の寅年の成績は、38年に石本秀一監督の下で年度優勝(春季は阪神、秋季は巨人が優勝し、年度優勝決定戦で巨人を下す)。2リーグに分立した50年は松木謙治郎監督の下で4位。62年には、初代巨人監督で1リーグ時代に巨人を7度優勝に導いた名将・藤本定義を迎え、2リーグ制下での初優勝。74年は金田正泰監督の下で4位。日本一に輝いた翌年の86年は吉田義男監督の下で3位。98年は第二次吉田政権で最下位。2010年は真弓明信監督の下で、中日に1ゲーム差の2位。寅年は優勝2度、2位と3位は1度ずつ、4位は2度、最下位は1度という成績を残している。

昨季は新人が躍動

昨季は新人が躍動した。ドラフト1位の佐藤輝明は田淵幸一の持っていた球団新人記録や新人左打者の最多本塁打記録を更新する24本塁打を放った。5月は28日の西武戦で、58年の長嶋茂雄以来となる新人の1試合3本塁打を放つなど、6本塁打(19打点)と躍動し、月間MVPを受賞。ドラフト2位の伊藤将司は阪神の新人左腕では67年の江夏豊以来となる二桁勝利(10勝7敗)を挙げた。プロ1年目で、スタミナ切れをせずに10・11月度の月間MVPを受賞。ドラフト6位の中野拓夢は30個の盗塁を決め、盗塁王のタイトルを獲得。新人特別賞を受賞した3人の若虎たちに引っ張られるように、シーズン前半にチームは躍進した。

若さと未熟さ

ただ若さと未熟さは表裏一体だ。佐藤輝は優勝争いが佳境を迎えたシーズンの終盤で59打席連続無安打という野手のプロ野球ワースト記録をつくった。後半戦はわずかに4本塁打と失速し、チームの攻撃力低下の一因となった。また中野は守備の名手という触れ込みで、遊撃手として初となるシーズン無失策を目標に掲げたが、両リーグ最多失策(17個)を記録し、投手陣の足を引っ張った。

V逸の最大の要因

昨季のV逸の最大の要因として、投打の主軸の不在が挙げられる。開幕投手の藤浪晋太郎は3勝3敗と精彩を欠き、先発の柱となるべく西勇輝が6勝9敗と、3つの負け越し。「西勇が貯金を3つ作ってくれていれば……」とは、首脳陣やファンの共通した想いであったろう。青柳晃洋が初の二桁勝利となる13勝(6敗)を挙げたが、やはりエースの働きがチームに勢いをもたらす。

4番の不在

攻撃に目を転じれば、絶対的な4番の不在である。昨季4番に座ったのは4人。大山悠輔は93試合、ジェフリー・マルテは32試合、佐藤輝明は11試合、ジェリー・サンズは7試合と固定できなかった。4人の中で打率、本塁打、打点のトップは、大山の2割6分、佐藤輝の24本、大山とマルテの71打点と、4番として物足りない数字だった。出場試合数をみると、大山は129試合、マルテは128試合、佐藤輝は126試合、サンズは120試合と欠場も多かった。ヤクルト・村上宗隆や巨人・岡本和真が全試合に出場したように、常時出場し、30本塁打・100打点をクリアできるような“不動の4番”の出現が待たれる。また昨季期待外れだったメル・ロハス・ジュニアが日本の野球に慣れ、2020年に韓国プロ野球でマークした3割4分9厘、47本塁打、135打点の打棒を発揮できるかもチームの浮沈のカギを握る。

今季の不安材料

昨季の最後の公式戦となったCSファーストステージ第2戦は、阪神が抱える問題点を浮き彫りにした。巨人に2-4で敗れたが、自責点ゼロながら4失点。守乱が大一番で発症し、勝負どころでの弱さを露呈した。4年連続でリーグワーストの失策数という汚名を返上しなければ、Vロードは開けない。救援陣に目を向けると、2年連続で最多セーブ投手賞に輝いたロベルト・スアレスの穴を埋められるかが焦点になる。クローザーとして前パイレーツのカイル・ケラーと契約を締結したと報じられたが、昨季62試合に登板し、被本塁打ゼロ、防御率1.16と抜群の安定感を誇った守護神の代役を探すのは容易ではない。

勝負の年

昨季、青柳が最多勝と最高勝率のタイトルを獲得。近本光司が最多安打のタイトルを獲得し、ベストナインとゴールデン・グラブ賞に選出。18年から3年連続でゴールデン・グラブ賞に選ばれた梅本隆太郎など、タレントは揃っている。その才能をどう生かせるか、矢野燿大監督の手腕が問われる。19年から3年契約で指揮を執った矢野監督。1年目は3位、2年目は2位、ホップ・ステップと順調にステップを踏み、ジャンプを狙った昨季――。優勝したヤクルトに13勝8敗(4分)、巨人には13勝9敗(3分け)と14年ぶりに勝ち越しながらもV逸。今季は“勝負の年”になる。