“超高校級”の投手
7月7日、日米通算で23年目のシーズンを迎えていた西武の松坂大輔が引退を表明した。昨季古巣の西武に復帰したが、31日現在1軍での登板はなかった。横浜高時代の1998年には、史上5校目(当時)となる甲子園春夏連覇の原動力となり、全国的な注目を集めた。夏の大会での準々決勝のPL学園戦では延長十七回、250球を投げ抜き、翌日の準決勝は1イニングを投げ、さらに翌日の京都成章高戦において決勝戦では59年ぶりとなる無安打無得点を達成するなど、“超高校級”の活躍は高校野球史に燦然と輝いている。名前の由来となったのは松坂が生まれた80年夏に1年生で準優勝を果たした早稲田実業の荒木大輔。甲子園に5度出場した荒木に勝るとも劣らない甲子園の“申し子”ぶりであった。
高卒新人投手に受難の時代
ドラフト前は「意中の球団(横浜)以外なら社会人入り」と表明していたが、ドラフト1位で横浜、日本ハムを含めた3球団が指名。当初の意思をひるがえし交渉権を獲得した西武に入団した。当時「甲子園優勝投手は大成しない」というジンクスがよく囁かれた。79年に春夏連覇を果たした箕島高の石井毅(西武)はプロ5年で8勝に終わり、80年夏の甲子園を制した横浜高の先輩・愛甲猛(ロッテなど)は3年間で1勝もできずに、打者に転向。ドラフト制後は高卒新人投手に受難の時代が続いていた。二桁勝利は67年に12勝を挙げた江夏豊(阪神)が最後だった。
“平成の怪物”の面目躍如
西武ドーム元年だった99年。16勝を挙げ、高卒新人投手では54年の宅和本司(南海)以来となる最多勝を獲得。ゴールデングラブ賞とベストナインをW受賞。高卒1年目投手の新人王は66年の堀内恒夫以来で、ルーキーイヤーから“平成の怪物”の名にふさわしい活躍をした。NPBでは3年連続で最多勝、最優秀防御率を2度、最多奪三振を4度を獲得。01年には沢村賞を受賞。06年には191試合目で100勝を挙げ、ドラフト制後では江川卓(巨人)の193試合を抜く最速記録だった。その年のオフにポスティングシステムでMLBのレッドソックスへ移籍。1年目は15勝12敗、2年目は18勝3敗と、野球の本場においても真価を遺憾なく発揮した。
日本代表のエースとして活躍
日本代表での“奮投”ぶりも鮮烈だった。打球を右腕に受けるアクシデントに見舞われながらも力投したアテネ五輪の銅メダル。WBCでは第1回(06年)、第2回大会(09年)の日本の連覇に貢献し、2大会連続で最優秀選手に選ばれた。しかし第2回大会時に3月の開催に間に合わせるために例年よりも調整を速めたことが故障の誘因となったのか、そのシーズンは4勝6敗とプロ入り最低の成績に終わった。その後は二桁勝利を挙げられずに、NPB復帰後、中日時代の18年に6勝でカムバック賞を受賞したのが“最後のひと花”となった。
“太く短い”全盛期
二桁勝利はプロ10年目が最後。3年12億プラス出来高というソフトバンクとの契約で日本球界に復帰するも、わずか1試合の登板に終わるなど、早期熟成な野球人生だった。高校時代の肩の酷使が“太く短い”全盛期の一因となったことは否めないだろう。WBCに出場しない米国の有力投手に対し、ジャパンのために一肌脱ぐことをいとわない松坂の気質は“浪花節”といえるし、日本人メジャーリーガーとしての矜持でもあっただろう。松坂は中学生時代からプロを目指し、好きな言葉は「目標が、その日その日を支配する」だったという。入団時には「200勝」という目標を掲げた。幾たびの手術を乗り越え、現役にこだわったのはその数字が頭にあったからではないだろうか。NPBで114勝65敗、MLBで56勝43敗の通算成績を残し、目標に30勝届かずに引退を決断。その胸にはどのような想いが去来したのだろうか。